「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)
今日の福音は以下のように構成されており、34-40節と41-45節の間に対応関係が見られる。 このような肯定と否定の反復によって、神ご自身の姿が強調される。「わたしは飢えていた」、「わたしは渇いていた」、「わたしは寄留者であった」、「わたしは裸であった」、「わたしは無力であった」、「わたしは牢にいた」と、神は繰り返し語る。つまり、神ご自身が「最も小さい者」となられたということだ。 当時のユダヤ人たちが「小さい者」への配慮を命じる掟を知らなかったはずはない。こうした社会的治弱者に対する保護規定は決してイスラエルにだけ見られるものではない。イスラエルにとって、このことは彼らの信仰の根幹にかかわることだった。彼らにとって「小さい者」を保護することは、「小さい者」であった自分たちの祖先にもたらされた神の救いの業に基づいている(申7:6-8)。つまり、「小さい者」への配慮とは、救いを当てにしての行為ではなく、すでに神から与えられている救いが要求する行為なのだ。このことを忘れるなら、「小さい者」への配慮は偽善となりやすい。神が先に与えてくださる救いに気づく こと、それが私たちを「小さい者」へ向かわせる。神は自ら「小さい者」となることによって、それを私たちに教えてくださった。 #
by HigashiyamaChurch
| 2014-11-23 06:00
「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:15)
マタイ福音書24~25章は、終末の諸相について語る。ここでの中心は、終末の時の「不測性」と、「不測性」ゆえに要求される神への「忠実さ」-それは、「目覚めている」と「用意する」という二つの言葉によって示されている-ということである。 今日の福音である「タラントンのたとえ」も、確かに終末の諸相の一つとして語られているが、このたとえのすぐ前に語られている「十人のおとめのたとえ」(25:1-13)や、「タラントンのたとえ」の並行箇所であるルカ福音書の「ムナのたとえ」(19:11-27)と比較したとき、それらが終末の時の「不測性」と神への「忠実さ」を中心テーマとするのに対して、「タラントンのたとえ」は神の人間に対する「信頼」と、それに対する人間の応答ということが中心テーマとなっている。言い換えれば、人間の神への「忠実さ」は、神の人間に対する「信頼」への応答なのだ。 ある人が「旅に出る」ときに、自分の莫大な財産を僕たちに託せるのは、僕たちを信頼しているからだ。これと同じ「信頼」は、マタイ福音書において「ぶどう園と農夫のたとえ」(21:33-46)にも見られる。ここではある主人が農夫たちに託して「旅に出る」主人の姿に、神の人間への「信頼」が示されている。主人の「信頼」をくみ取り、それに応えようとする者にとって、主人の帰還は主人への「信頼」を示すことができる喜びの時となるが、主人の「信頼」をくみ取れず、それに応えようとしない者にとっては、主人への「不信頼」があらわになる災いの時となる。 終末の時は、確かに人間には予測できないものである。主に信頼せず、忠実でない者にとっての「安全保証」には何の根拠もなく、終末の時の「不測性」は闇となる。しかし、主に信頼して忠実に生きようとする者にとって、「不測性」は決して闇とはならない。なぜなら、何よりも神の「信頼」が「安全保証」となり、光をもたらすからだ(1テサ5:1-5)。終末の時の「不測性」は主に信頼しない者にとっては恐れを生じさせるが、主に信頼する者にとっては神との信頼関係をより強めるものとなる。 1タラントンは6,000デナリオン銀貨に相当。1デナリオンは1日の賃金に当たる。 #
by HigashiyamaChurch
| 2014-11-16 06:00
「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:21)
建築の歴史は、キリスト教誕生以後は、教会の歴史と言ってもいいほどで、教会堂以外の建築物が建築史に登場するのはようやく19世紀に入ってからのことである。ヨーロッパ・キリスト教は、その歴史のなかで、教会建築に莫大なエネルギーを注いできたわけである。 しかし、イエスの教えの根本にあるのは、絶対的な存在である神と、その前にあって相対的な存在である人間とを結びつけるために、いわば人為的に作られたものを絶対化することに対する批判であったと言えるだろう。それが「律法批判」であり、「神殿批判」であった。ユダヤ人にとって、これらのことは神の民のアイデンティティを確認するものであり、それらを否定することは、自らの存在を否定することだった。しかし、イエスは神との人為的な仲介物によらないで、神との直接的な交わりを回復しようとしたのではないか。 紀元70年、エルサレム神殿はローマ軍によって破壊された。このことを記憶に留めていたヨハネ共同体の信者たちは、今日の福音にあるような生前のイエスの言葉を思い起こし、破壊された神殿と、十字架の死を経て復活されたイエスを対比したにちがいない。 20年ほど前、ヘブライ大学のS.サフライ教授が来日されて、「キリスト教成立の背景としてのユダヤ教の世界」という連続講演が東京、大阪、福岡で行われた。サフライ氏は敬虔なラビとして、安息日を厳守し、食事規定もしっかり守っておられ、そのため主催者は大変な苦労をしたそうです。しかし、サフライ氏は講演のなかで、「犠牲を捧げることよりも、神の教えがどこにあるかを探求することの方がより重要であり、したがって、神殿の再建は大事なことではない」と言われました。 一人ひとりのキリスト者が、神の教えがどこにあるかをそれぞれの生活の場で探求するという営みのなかにこそ「教会」はあるのだ。 #
by HigashiyamaChurch
| 2014-11-09 06:00
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである」
(ヨハネ6:40) キリスト教信仰は、イエス・キリストにおいて決定的な形で神がご自身を与えておられると信じ、イエスこそが「道であり、真理であり、命である」(ヨハ14:6)と信じるものである。だが、多元的な世界のなかで、このことはキリスト教の宣教にとって一番難しい点でもある。イエスの教えに喜んで耳を傾ける人は多いとしても、イエスを通してのみ真の神に出会えるという主張が全面に出された途端に、現代人の多くは戸惑いを感じるだろう。 ヨハネ福音書6章でも、イエスの話を聞いた弟子たちの多くの者が、「実にひどい話だ。 だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60)と言って離れ去った。これに対してペトロは、残った弟子たちを代表して、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6:68)と信仰告白する。神がイエスを通して語られるのだということ、イエスを通してのみ真の神に出会えるのだということを、ヨハネ福音書は繰り返し述べ、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14:9)とイエスに語らせている。これがキリスト教信仰の真髄であると同時に、受容されにくい点でもある。 なぜなら、私たちの復活信仰は、使徒たちの証言に基づく以外にはないからだ。この証言に基づいて、キリスト教信仰が生まれ、教会が成立したのである。神の真理は、信仰共同体によって受け止められて初めて世界にもたらされるようになった。それは現代においても、キリスト教信仰の本質を構成し、教会の基礎となっている。 これがキリスト教信仰の「教会性」である。信仰は教会なしにはあり得ない。イエスは教会なしには与えられない。非常にみすぼらしい仲介ではあれ、教会の仲介がなければ、イエス・キリストの啓示は世界に与えられない。「教会性」ということを忘れるならば、復活の希望は彼岸的なものになってしまうだろう。全教会がすべての死者のために祈る「死者の日」に、私たちの復活信仰を改めて問い直したい。 ※11月2日は、堅信式のために野村純一司教様がミサを司式されたので、「絵本による説教」はお休み。 #
by HigashiyamaChurch
| 2014-11-02 06:00
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)
マタイ福音書は、イエスを「旧約の完成者」として描く(5:17)。今日の福音をマルコの並行箇所(12:28-34)と比較すると、マタイのこうしたイエス理解がより明瞭に示されていることがわかる。 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(40節)-「律法全体と預言者」とは、言うまでもなく旧約聖書を指す。「基づいている」と訳されている「クレマンニューミ」というギリシア語は「ぶら下がっている」状態を表す。つまり、旧約聖書全体は「神への愛と人への愛」という二つの掟に「ぶら下がっている」。ちょうど、扉がちょうつがいに、荷物が物掛けに掛かっているように掛かっている。ちょうつがいがなければ、扉がその機能を果たせず、物掛けがなければ荷物が掛けられないのと同じように、「神への愛と人への愛」という二つの掟がなければ、旧約聖書全体が生きたものとはならない。だからこそ、この二つの掟は、単に掟の中で重要なものの一つとか二つとかいうのではなく、「最も重要な第一の掟」(38節)なのである。 ファリサイ派の人々が、「神への愛と人への愛」という掟が最も重要であることを知らなかったわけではないだろう。しかし、彼らとイエスの律法理解には根本的な相違がある。ファリサイ派の人々にとって、掟はすべて等しく守るべきものである。これに対してイエス は、掟には「神への愛と人への愛」という要があり、これこそが掟の命であり、他のすべての掟はこれに従属するものであると主張する。そして、主張するだけでなく、身をもってこのことを示した。このようなイエスを受け入れることができなかった彼らは、ついにはイエスを木に「かけて」(クレマンニューミ)殺してしまった(使5:30; 10:39)。 旧約が「神への愛と人への愛」にかかっているなら、新約がかかっている「神への愛と人への愛」はイエスの十字架に他ならない。イエスは自らの十字架によって旧い契約を完成し、新しい契約をもたらした。この新しい契約に生きようとするキリスト者は、ミサに与るたびに、イエスが身をもって示された生き方を自分のものとすることを約束し直す。 #
by HigashiyamaChurch
| 2014-10-26 06:00
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